太陽電池の未来
ニュースで見かけたので、ちょっと紹介。
太陽電池の効率を上げる為の手法が開発された模様です。まだ理論計算の段階で実用レベルには達していない様ですが、要するに、今までの太陽電池では利用しきれなかった周波数の光を電気に変える為のアプローチの道筋がついたと言う事ですね。
太陽電池は、要するに半導体なので、スイッチのライトやイルミネーション、信号機などと同様で、単色の光しか利用できなかった訳です。 つまり、虹の七色のうち一色しかエネルギーに変えられなかった訳で、後の六色は捨てていた訳です。で、今回明らかになった事によると、残りの色もエネルギーに変えられる=発電効率が飛躍的に上がる可能性が出てきたって事です。
急激に原発に変わる代替エネルギーに取って代わる事はないのでしょうが、ちまちまとした日常の電力をこう言うものに置き換えて行く事によって少しずつでも節電が進むのはいい事だと思います。
個人的に脱原発にはあまり積極的ではないのですが、今の状況を鑑みると使う側と言うか管理する側がこれでは後退は致し方ないと思います。しかし、今の状態を招いたのが必ずしも政府や管轄省庁、ご用学者達の隠蔽体質だけにあるのではなく、ある意味宗教じみた反原発側のヒステリックで非科化学的な主張のごり押しの果てに生まれてしまった状況だと言うのも、過小評価すべきではない事実だと思います。
科学を政治に使うのは、非常に危険です。
何故なら、科学とは「取り敢えず今の時点でわかっている事を矛盾なく説明できる」体系でしかないからです。科学では説明できるところと出来ないところが曖昧に混じりあっていて、その矛盾した状態を科学者は身体でわかっているのですが、単純なスローガンが欲しい政治家にはそんなことは関係のないことなのです。ですが大衆が求めているのは最終的には科学的真理<政治的利益なので、そこには両者の対立と言うか葛藤が生まれ、きしみながら何とか前へ進んで行くのが今の民主主義国家と言えるのでしょう。
政治家とは、最善を目指しつつも実現しない最善よりも実現可能な次善を行う事によって出来る限り多くの人を救うお仕事です。科学者はそれのもたらす政治的影響力などには目もくれず、ただただ道を示しているだけです。道を選ぶの最終的に政治家の仕事なのだと、私は強く思います。小 佐 古 敏 荘 教授、涙の会見はそれを象徴してあまりあります。彼の「科学者としての良心」は今まで積み上げてきた研究成果を、政治的にねじ曲げられる事を良しとしなかったのでしょう。彼が今までやってきた事については知りませんが、科学者としては正しい行動だったと言わざるを得ません。
政府参与としての名誉・報酬よりも、一科学者としての実績の方が彼にとって大切だったと言う事実には感心しました。政治や情勢に専門バカは専門バカとしての道を貫くべきだと思うからです。
取留めなくなってしまいましたが、江戸や明治から、あるいはそのずっと前から続く知識と技術の集積によって今の日本は支えられています。今回紹介したような素晴らしい技術が、日本を、そして世界を牽引して行くことを願って止みません。
日本とは「Technology 」の国だとCBCの番組で紹介されていました。伝統工芸と最先端技術とが矛盾なく同居し、八百万の神々と百鬼夜行の妖怪と科学的合理主義を矛盾なく己のうちに内包する日本人を、我々はもっと誇りに思っていいと思うのです。
なんだか後半テーマがずれたような気がしないでもないような気がましたが、今回の元ネタは以下のものでございます。全文をまだ読んでいないので何とも言えないのですが、これから素晴らしい技術に発展することが出来る研究成果である事を望みます。
Appl. Phys. Lett. 98, 171108 (2011); doi:10.1063/1.3583587 (3 pages)
太陽電池の効率を上げる為の手法が開発された模様です。まだ理論計算の段階で実用レベルには達していない様ですが、要するに、今までの太陽電池では利用しきれなかった周波数の光を電気に変える為のアプローチの道筋がついたと言う事ですね。
太陽電池は、要するに半導体なので、スイッチのライトやイルミネーション、信号機などと同様で、単色の光しか利用できなかった訳です。 つまり、虹の七色のうち一色しかエネルギーに変えられなかった訳で、後の六色は捨てていた訳です。で、今回明らかになった事によると、残りの色もエネルギーに変えられる=発電効率が飛躍的に上がる可能性が出てきたって事です。
急激に原発に変わる代替エネルギーに取って代わる事はないのでしょうが、ちまちまとした日常の電力をこう言うものに置き換えて行く事によって少しずつでも節電が進むのはいい事だと思います。
個人的に脱原発にはあまり積極的ではないのですが、今の状況を鑑みると使う側と言うか管理する側がこれでは後退は致し方ないと思います。しかし、今の状態を招いたのが必ずしも政府や管轄省庁、ご用学者達の隠蔽体質だけにあるのではなく、ある意味宗教じみた反原発側のヒステリックで非科化学的な主張のごり押しの果てに生まれてしまった状況だと言うのも、過小評価すべきではない事実だと思います。
科学を政治に使うのは、非常に危険です。
何故なら、科学とは「取り敢えず今の時点でわかっている事を矛盾なく説明できる」体系でしかないからです。科学では説明できるところと出来ないところが曖昧に混じりあっていて、その矛盾した状態を科学者は身体でわかっているのですが、単純なスローガンが欲しい政治家にはそんなことは関係のないことなのです。ですが大衆が求めているのは最終的には科学的真理<政治的利益なので、そこには両者の対立と言うか葛藤が生まれ、きしみながら何とか前へ進んで行くのが今の民主主義国家と言えるのでしょう。
政治家とは、最善を目指しつつも実現しない最善よりも実現可能な次善を行う事によって出来る限り多くの人を救うお仕事です。科学者はそれのもたらす政治的影響力などには目もくれず、ただただ道を示しているだけです。道を選ぶの最終的に政治家の仕事なのだと、私は強く思います。小 佐 古 敏 荘 教授、涙の会見はそれを象徴してあまりあります。彼の「科学者としての良心」は今まで積み上げてきた研究成果を、政治的にねじ曲げられる事を良しとしなかったのでしょう。彼が今までやってきた事については知りませんが、科学者としては正しい行動だったと言わざるを得ません。
政府参与としての名誉・報酬よりも、一科学者としての実績の方が彼にとって大切だったと言う事実には感心しました。政治や情勢に専門バカは専門バカとしての道を貫くべきだと思うからです。
取留めなくなってしまいましたが、江戸や明治から、あるいはそのずっと前から続く知識と技術の集積によって今の日本は支えられています。今回紹介したような素晴らしい技術が、日本を、そして世界を牽引して行くことを願って止みません。
日本とは「Technology 」の国だとCBCの番組で紹介されていました。伝統工芸と最先端技術とが矛盾なく同居し、八百万の神々と百鬼夜行の妖怪と科学的合理主義を矛盾なく己のうちに内包する日本人を、我々はもっと誇りに思っていいと思うのです。
なんだか後半テーマがずれたような気がしないでもないような気がましたが、今回の元ネタは以下のものでございます。全文をまだ読んでいないので何とも言えないのですが、これから素晴らしい技術に発展することが出来る研究成果である事を望みます。
Appl. Phys. Lett. 98, 171108 (2011); doi:10.1063/1.3583587 (3 pages)
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