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認識とは

 ちょっと亡備録的な。

 色々と自分の道を模索中・・・


 世界とは、自己無撞着なケットベクトルを基底として張る部分空間である、と恩師は言った。

 もし、この宇宙が全空間だと仮定したならば、認識とは意識の上へのある部分空間の射影であるはずだ。

 我々は、宇(空間)と宙(時間)に縛られており、時間の自由度は一次元でしかも正しかない。過去は演繹的であり未来は帰納的である。そして、我々は光と時間の制約によってライト・コーンの外には出られない。

 この小さな世界に我々を縛っているのは、すなわち認識であり、意識である。部分空間たる自己無撞着系を形成する前提が、人の知識のみであるのなら、世界は我々の意識の中にこそあるのだろうか。

 意識するものがないことと存在の因果関係は証明されない。観測者がいないとしても物理現象は起きるし、定数も変わらない。エントロピーの増大も宇宙の膨張も我々の認識の一種として説明され得るものではあるが、だからと言って客観的現象が否定されるわけではない。

 人々は、共同幻想あるいは仮定モデルと言う形で世界を認識しており、そこに意識の共有と社会性が生まれてくる。

 言葉、文化、民俗、あるいは宗教、科学、趣味、空想、どれもみな基底ベクトルを持ち、部分空間を張っていて互いの関係の有無は問題ではない。それぞれの定義する世界は並立している。

 そしてその並行する部分空間を構成する要素を学ぶことで、我々は、あるいは私と言う意識は別の部分空間、すなわち「世界」を認識し、新しい世界を手に入れることが出来るのだ。

 私の恩師は「お作法を守りなさい」とよく言っていた。確立された作法は、世界を構成する基底を表すもので、それに沿うことによって世界を理解する手助けとなる、そう言う意味なのだと思う。

 世の中には、様々な形での部分空間が存在し、その中でのみ成り立つ法則と言語を持ってしてその世界を維持している。

 すなわち、知識を得て様式を身につけることは、自分の意識の上での世界を広げるのと同じなのである。

 我々が個としての意識の上で、宇宙を認識を広げようと言う試みに、どれほどの意味があるかは分からない。あるいは意識が干渉することによって宇宙が応答しているのかもしれない。

 知識、意識、認識・・・識とはなんなのだろう?

 取り敢えず、歩きはじめる気力が出て来た今は、縁になる「識」を強く求めているのだ。


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